一日一駄話 / SOU・SOUプロデューサー若林剛之によるたわいもない事
“SOU・SOUへの道(10)”
※これまでの「SOU・SOUへの道」はコチラ。
学校を出て、ファイブフォックスという会社にパターンナーとして就職した。
実はここ以外全ての会社に落ちたのだ。
入社試験は手袋のトワル作成だった。
当日までジャケットのパターンが試験に出ると思っていたので面食らった。
しかも手袋のパターンなんて学校で教わっていない。
しかしそんなことも言ってられないので、独自のやり方でパターンを作成し、トワルを組んだ。試験を受けていた5人の中で、一番初めに完成した。
後で知ったが、全員採用されていた。そういう時代だったのだと思う。
社会人になって本当の一人暮らしが始まった。
西新宿の4畳半一間でキッチン、トイレ付き、木造ボロボロのみどり荘というアパートで、家賃は5万円だった。
当時のDCブランドは、イケイケの売れ売れだった。
仕事はたくさんあって、帰るのがいつも深夜だった。
深夜にシャワーを浴びたら、1階に住んでいる大家さんに「うるさい!」と注意された。それは、建物の構造上の問題やろと思った。
会社は原宿駅のすぐ前にあった。
一緒に働いていた先輩達にも恵まれて、いそがしい中とても楽しかった。
パターンは、僕の時代は全て手で引いていた。今はCADだと思いますが。
当時誰の机にもパソコンなんて1台もなかった。今では考えられないかもしれない。
展示会前になると、会社に寝泊りする。原反室のパッキンの束の上に寝るのだが、なかなか気持ちよかった。
何日間も泊まると汗もかくので、16時頃に原宿のど真ん中にあった銭湯にもよく行った。
僕がいたブランドのマネージャー(チーフデザイナー)はとても厳しい人だった。
でもそのお陰で、今何が起こってもたいがいのことは大したことないと思える。
いそがしくて大変だったが、今思い返すとその時が一番楽しかったと思う。
写真は、おいしいカレーを食べて満足しきった後に、チャイでしめているカメラ目線のちゅぢゅきさん。
それでは、また明日。
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